『聖書 聖書協会共同訳』
© 日本聖書協会、Japan Bible Society , Tokyo 2018
【今週の御言葉】2024年11月17日
イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
マルコによる福音書 2章5節
2024年11月10日
ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」
使徒言行録 1章 8節
2024年11月3日
イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。
夕方になったので、弟子たちが御もとに来て言った。「ここは寂しい所で、もう時間もたちました。群衆を解散し、村へ行ってめいめいで食べ物を買うようにさせてください。」
イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」
弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。
人々は皆、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを集めると、十二の籠いっぱいになった。
食べた人は、女と子どもを別にして、男が五千人ほどであった
マタイによる福音書 14章13~21節
2024年10月27日
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。✝
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」
イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
そこで、ユダヤ人たちは病気を癒やしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない。」
しかし、その人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と尋ねた。
しかし、病気を治していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと立ち去られたからである。
その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。
イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」
このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである。
ヨハネによる福音書 5章1~18節
【今週の御言葉】2024年10月20日
イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子を癒やしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。
王の役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と言った。
イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
そこで、息子が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「昨日の午後一時に熱が下がりました」と言った。
それが、イエスが「あなたの息子は生きている」と言われたのと同じ時刻であったことを、父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。
これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、第二のしるしである。
ヨハネによる福音書 4章46~54節
2024年10月6日
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
フィリピの信徒への手紙 3章20節
2024年9月29日
こういうわけで、私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖なる者たちに対する愛とを聞いて、
祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。
エフェソの信徒への手紙 1章15~19節
2024年9月22日
イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」
女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」
その時、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何をお求めですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
女は、水がめをそこに置いて町に行き、人々に言った。
「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
人々は町を出て、イエスのもとへ向かった。
ヨハネによる福音書 4章21~30節
【今週の御言葉】2024年9月15日
ダビデの詩。
私の魂よ、主をたたえよ。
私の内なるすべてのものよ
その聖なる名をたたえよ。
私の魂よ、主をたたえよ。
そのすべての計らいを忘れるな。
主はあなたの過ちをすべて赦し
あなたの病をすべて癒やす方。
あなたの命を墓から贖い
あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方。
あなたの望みを良きもので満たす方。
こうして、あなたの若さが
鷲のように新しくよみがえる。
主は虐げられているすべての者のために
正義と公正を行う。
主は、ご自分の道をモーセに
御業をイスラエルの子らに知らせた。
主は憐れみ深く、恵みに満ち
怒るに遅く、慈しみに富む。
永遠に争い続けることなく
とこしえに怒り続けることもない。
私たちを罪に応じてあしらうことなく
過ちに従って報いることもない。
天が地よりも高いように
主の慈しみは主を畏れる者をはるかにしのぐ。
東が西から遠いように
主は私たちの背きの罪を遠ざける。
父が子らに憐れみをもたらすように
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。
主は私たちが造られた様を知り
私たちが塵にすぎないことを覚えておられる。
人の日々は草のよう。
野の花のように咲くのみ。
風がそこを吹き抜ければ、消えうせ
生えていた場所も、もはやそれを知らない。
しかし、主の慈しみは
いにしえからとこしえまで主を畏れる者の上にあり
その義は子らの子に
その契約を守る者に
その諭しを心に留めて行う者に及ぶ。
主は天に王座を据え
その王権はすべてを治める。
御使いたちよ
御言葉を行う力ある勇士たちよ、主をたたえよ
御言葉の声に聞き従うために。
主の万軍よ
主に仕え、御旨を行う者たちよ、主をたたえよ。
主の造られたすべてのものよ、主をたたえよ
主の治めるすべての場所で。
私の魂よ、主をたたえよ。
詩編 103編 1~22節
2024年9月8日
ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。
使徒言行録 1章 8節
2024年8月24日
さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
――洗礼(バプテスマ)を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちであった――
ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリアを通らねばならなかった。
それで、イエスはヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである。
イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」
女は言った。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」
ヨハネによる福音書 4章1~15節
2024年8月18日
その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼(バプテスマ)を授けておられた。
また、ヨハネもサリムに近いアイノンで洗礼(バプテスマ)を授けていた。そこは水が豊かだったからである。人々は来て、洗礼(バプテスマ)を受けていた。
ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
折しも、ヨハネの弟子のある者たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
弟子たちはヨハネのもとに来て言った。「先生、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼(バプテスマ)を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、私は衰える。」
上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証しを受け入れない。
その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確かに認めたのである。
神がお遣わしになった方は、神の言葉を語られる。神が霊を限りなくお与えになるからである。
御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。
御子を信じる人は永遠の命を得る。しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネによる福音書 3章22~36節
2024年8月4日
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。
ヨハネによる福音書 3章16~21節
2024年7月28日
さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。
この人が、夜イエスのもとに来て言った。「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
よくよく言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。
私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書 3章1~15節
2024年7月21日
過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、
人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。
イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
ヨハネによる福音書 2章23~25節
2024年7月14日
エルバアル、すなわちギデオンと、彼の率いる全軍は朝早く起きて、エン・ハロドのそばに陣を敷いた。一方、ミデヤン人の陣営はその北側、モレの丘に沿った谷にあった。
主はギデオンに言われた。「あなたと共にいる兵の数は多すぎるから、私はミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救ったのだ』と言って、私に対して驕り高ぶるようになってはいけない。
そこで今、兵士たちに呼びかけて言いなさい。『恐れおののく者は皆帰るがよい。ギルアドの山から立ち去るがよい。』」すると、兵の中から二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
主はギデオンに言われた。「兵の数はまだ多い。彼らを水辺へと下らせなさい。私はそこで、あなたのために彼らをえり分けることにしよう。私があなたに『この者を共に行かせよ』と告げた者は、あなたと共に行く。私があなたに『この者は共に行かせてはならない』と告げた者は、誰も行ってはならない。」
ギデオンは民を水辺へと下らせた。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者と、膝をついてかがんで水を飲む者とを、すべて別にしなさい。」
手を口に当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの兵は皆、膝をついてかがんで水を飲んだ。
主はギデオンに言われた。「手で水をなめたこの三百人をもって、私はあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡そう。残りの兵は皆、それぞれ自分の家に帰しなさい。」
ギデオンはイスラエルの兵士全員の手から食料と角笛を受け取った。そして三百人をとどめ置き、残りはそれぞれの天幕に帰らせた。ミデヤン人の陣営は下に広がる谷にあった。
士師記 7章1~8節
真夜中の見張りが始まる頃、ギデオンと彼の率いる百人が敵陣の端までやって来ると、ちょうど見張りが交代したところであった。彼らは角笛を吹き鳴らし、手にしていた水がめを打ち砕いた。
三つの隊は角笛を吹き鳴らし、水がめを砕き、左手に松明を、右手には吹き鳴らす角笛を握りしめ、「主のため、ギデオンのための剣」と叫び、
各自持ち場を守り、敵陣を包囲したので、敵陣の者は皆走り出し、叫び声を上げて逃げ場を求めた。
三百人が角笛を吹き鳴らすと、主は敵陣の至るところで同士討ちとなるよう仕向けられた。敵軍はツェレラのベト・シタまで、またタバトの近くのアベル・メホラの境まで逃走した。
士師記 7章19~22節
2024年7月7日
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
そして、神殿の境内で、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが座っているのを御覧になった。
イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
ユダヤ人たちはイエスに、「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と言った。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、三日で建て直すと言うのか」と言った。
イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。
イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
ヨハネによる福音書 2章13~22節
2024年6月23日
その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。
フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
ナタナエルが、「ナザレから何の良いものが出ようか」と言うと、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。それよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう。」
さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
ヨハネによる福音書 1章43~51節
2024年6月16日
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。世が私たちを知らないのは、神を知らなかったからです。
ヨハネの手紙一 3章 1節
2024年6月2日
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
『私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさっている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。
私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は、水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」
またヨハネは証しして言った。「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である。』
私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ヨハネによる福音書 1章29~34節
2024年5月26日
さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせたとき、
彼は公言してはばからず、「私はメシアではない」と言った。
彼らがまた、「では、何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「そうではない」と言った。さらに、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「違う」と答えた。
そこで、彼らは言った。「誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事ができるようにしてください。あなたは自分を何者だと言うのですか。」
ヨハネは言った。/「私は、預言者イザヤが言ったように/『主の道をまっすぐにせよ』と/荒れ野で叫ぶ者の声である。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアではなく、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼(バプテスマ)を授けるのですか」と言うと、
ヨハネは答えた。「私は水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。
その人は私の後から来られる方で、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」
これは、ヨハネが洗礼(バプテスマ)を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
ヨハネによる福音書 1章19~28節
2024年5月19日
そこで、ペトロが十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください。
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではありません。
そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。 終わりの日に 私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し 若者は幻を見、老人は夢を見る。
その日、男女の奴隷にも わが霊を注ぐ。 すると、彼らは預言する。
上では、天に不思議な業を 下では、地にしるしを示す。 血と火と立ち上る煙が、それだ。
主の大いなる輝かしい日が来る前に 太陽は闇に 月は血に変わる。
しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
使徒言行録 2章14~21節
2024年5月12日
レビの家のある男が、レビの娘をめとった。
女は身ごもり、男の子を産んだ。その子を見ると、愛らしかったので、三か月間隠しておいた。
しかし、もはやその子を隠しきれなくなったので、その子のためにパピルスの籠を用意し、アスファルトと樹脂で防水し、その中に赤子を寝かせてナイルのほとりの水草の茂みに置いた。
その子の姉が遠くから、その子の身に何が起こるかうかがっていると、
ファラオの娘が下りて来て、川で水浴びを始めた。侍女たちは川の岸を歩いていた。ファラオの娘が水草の茂みでその籠を見つけ、女奴隷をやって取って来させた。
開けてみると、赤子がいた。それは男の子で、泣いていた。彼女は不憫に思って、「この子はヘブライ人の子です」と言った。
その時、その子の姉がファラオの娘に申し出た。「私が行って、あなたのために、この子に乳を飲ませる乳母をヘブライ人の中から呼んで参りましょうか。」
するとファラオの娘は、「行って来なさい」と言った。そこで、少女は行って、その赤子の母親を呼んで来た。
ファラオの娘は彼女に言った。「この赤子を連れて行って、私のために乳を飲ませなさい。私が手当てを払います。」そこで、母親は赤子を引き取り、乳を飲ませた。
その子が大きくなると、母親はファラオの娘のところに連れて行った。その子はファラオの娘の息子となった。ファラオの娘はその子の名をモーセと名付けて、「私が彼を水から引き出したからです」と言った。
出エジプト記 2章1~10節
2024年4月21日
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネは、この方について証しをし、大声で言った。「『私の後から来られる方は、私にまさっている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。
律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書 1章14~18節
2024年4月14日
「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。
また、天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
マタイによる福音書 13章44~46節
2024年4月7日
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。
この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
ヨハネによる福音書 1章1~12節
2024年3月31日
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座ったからである。
その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
見張りの者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
女たちは、恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
マタイによる福音書 28章1~8節
2024年3月24日
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、胆汁を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、そこに座って見張りをしていた。
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
同時に、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられた。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、言った。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
彼は神に頼ってきた。お望みならば、神が今、救ってくださるように。『私は神の子だ』と言っていたのだから。」
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。
マタイによる福音書 27章32~44節
2024年3月17日
目を覚ましていなさい。信仰にしっかりと立ちなさい。雄々しく強くありなさい。
何事も愛をもって行いなさい。
コリントの信徒への手紙一 16章13~14節
2024年3月10日
きょうだいたち、私はこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。また、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐこともありません。
ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。
終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられます。
この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。
この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利に吞み込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前の棘はどこにあるのか。」
コリントの信徒への手紙一 15章50~55節
2024年3月3日
キリストが死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなたがたの信仰も無駄になります。
それどころか、私たちは神について偽証した者ということになります。なぜなら、本当に死者が復活しないのなら、神が実際には復活させなかったキリストを、復活させたと言って、神に反して証言したことになるからです。
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にいることになります。
そうだとすると、キリストにあって眠りに就いた人々も滅んでしまったわけです。
この世にあって、キリストに単なる望みをかけているだけなら、私たちは、すべての人の中で最も哀れな者となります。
しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。
死が一人の人を通して来たのだから、死者の復活も一人の人を通して来たのです。
つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。
しかし、一人一人にそれぞれ順番があり、まず初穂であるキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属する人たち、
それから、世の終わりが来ます。その時、キリストはあらゆる支配、あらゆる権威と勢力を無力にして、父なる神に国を引き渡されます。
キリストはすべての敵をその足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
最後の敵として、死が無力にされます。
コリントの信徒への手紙一 15章12~26節
2024年2月25日
きょうだいたち、私はここでもう一度、あなたがたに福音を知らせます。私があなたがたに告げ知らせ、あなたがたが受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音を、どんな言葉で告げたかを知らせます。もっとも、あなたがたが無駄に信じたのではなく、今もしっかりと覚えていればの話ですが。
最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
ケファに現れ、それから十二人に現れたことです。
その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りに就きましたが、大部分は今でも生きています。
次いで、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました。
私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
神の恵みによって、今の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他の使徒たちの誰よりも多く働きました。しかし、働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。
だから、私にしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
コリントの信徒への手紙一 15章1~11節
2024年2月18日
ただ、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。 コリントの信徒への手紙一 14章 40節
2024年2月11日
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソの信徒への手紙 2章8節
2024年2月4日
私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われました。「この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。」
だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
コリントの信徒への手紙一 11章23~26節
2024年1月28日
いずれにせよ、主にあっては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
女が男から出たように、男も女から生まれたからです。そして、すべてのものは神から出たのです。
コリントの信徒への手紙一 11章11~12節
2024年1月21日
あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。 コリントの信徒への手紙一 12章27節
2024年1月14日
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。
コリントの信徒への手紙一 13章 13節
2024年1月7日
これがあなたへのしるしである。 今年は自然に実った穀物を食べ 二年目は自生したものを食べ
三年目は種を蒔いて刈り入れ ぶどう畑を作ってその実りを食べよ。
ユダの家に残り、難を逃れた者は 再び根を下ろし、上に実をつける。
エルサレムから生き残った者が シオンの山から難を逃れた者が現れ出る。 万軍の主の熱情がこれを成し遂げられる。
列王記下 19章29~31節
【今年度の聖句1】2024年1月1日
そして、百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどその時、その子は癒やされた。
マタイによる福音書 8章 13節
2023年12月31日
主に感謝せよ。まことに主は恵み深い。慈しみはとこしえに。 詩編 118編 1節
2023年12月24日
さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。
「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。
ルカによる福音書 2章8~16節
2023年12月17日
その頃、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録であった。
人々は皆、登録するために、それぞれ自分の町へ旅立った。
ヨセフもダビデの家系であり、またその血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身重になっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがそこにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。
ルカによる福音書 2章1~7節
2023年12月10日
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
ダビデ家のヨセフと言う人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込んだ。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。
ルカによる福音書 1章26~38節
2023年12月3日
エフラタのベツレヘムよ あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。 あなたから、私のために イスラエルを治める者が出る。 その出自は古く、とこしえの昔に遡る。
それゆえ、産婦が子を産むまで 主は彼らをそのままにしておかれる。 彼の兄弟の残りの者は イスラエルの子らのもとに帰って来る。
彼は立ち上がり、主の力と その神、主の名の威光によって群れを治める。 彼らは安らかに住み 彼は今、大いなる者となって地の果てにまで及ぶ。
この方こそ平和である。 アッシリアが私たちの地に進撃し 私たちの城郭を踏み潰すとも 私たちはこれに向かって 七人の牧者、八人の王侯を立てる。
彼らは剣によってアッシリアの地を 抜き身の剣でニムロドの地を治める。 アッシリアが私たちの地に上って来て 領土を踏み潰すとも 彼らが救ってくれる。
ミカ書 5章1~5節
2023年11月26日
だから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
私が、何事につけ、すべての人を喜ばせているようにです。私は、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の利益を求めているのです。
コリントの信徒への手紙一 10章31~33節
2023年11月19日
また、彼らの中のある者たちがしたように、キリストを試みないようにしましょう。試みた者は、蛇に滅ぼされました。
また、彼らの中のある者がしたように、不平を言ってはいけません。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。
これらのことが彼らに起こったのは、警告のためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちを戒めるためなのです。
だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。
コリントの信徒への手紙一 10章9~13節
2023年11月12日
私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。
ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法の下にある人には、私自身はそうではありませんが、律法の下にある人のようになりました。律法の下にある人を得るためです。
私は神の律法を持たないのではなく、キリストの律法の内にあるのですが、律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
弱い人には、弱い人になりました。弱い人を得るためです。すべての人に、すべてのものとなりました。ともかく、何人かでも救うためです。
福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです。
コリントの信徒への手紙一 9章 19~23節
2023年11月5日
「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。
与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。人々は升に詰め込み、揺すり、溢れるほどよく量って、懐に入れてくれる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである。」
イエスはまた、たとえを話された。「盲人に盲人の手引きができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる。
きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。
自分の目にある梁は見ないで、きょうだいに向かって、『きょうだいよ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。偽善者よ、まず、自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目にあるおが屑を取り除くことができる。」
ルカによる福音書 6章37~42節
2023年10月29日
あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人は神殿から下がるものを食べ、祭壇に仕える人は祭壇の供え物にあずかります。
同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の糧を得るようにと、命じられたのです。
しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。こう書いたのは、自分もそうしたいからではありません。そうするくらいなら、死んだほうがましです……。私のこの誇りは誰も奪うことができません。
もっとも、私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私には災いです。
自分からそうしているなら、報酬を受けるでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、委ねられた務めなのです。
では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときに無償でそれを提供し、宣教者としての私の権利を用いないということです。
コリントの信徒への手紙一 9章 13~18節
2023年10月22日
偶像に献げた肉について言えば、私たちは皆、知識を持っている、ということは確かです。しかし、知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます。
コリントの信徒への手紙一 8章1節
2023年10月8日
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一 6章19~20節
2023年10月1日
するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。
ルカによる福音書 23章43節
2023年9月24日
それとも、正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけません。淫らな者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に溺れる者、人を罵る者、奪い取る者は、神の国を受け継ぐことはありません。
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされたのです。
コリントの信徒への手紙一 6章9~11節
2023年9月17日
心の清い人々は、幸いである その人たちは神を見る。
マタイによる福音書 5章8節
2023年9月10日
私は前の手紙で、淫らな者と交際してはいけないと書きました。
それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を礼拝する者と一切交際してはいけない、ということではありません。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かなければならないでしょう。
今度はこう書きます。きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。
外部の人々を裁くことは、私の務めでしょうか。あなたがたが裁くべき者は、内部の人々ではありませんか。
外部の人々は、神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪人を除き去りなさい。」
コリントの信徒への手紙一 5章9~13節
2023年9月3日
ところで、私があなたがたのところに来ることはあるまいと、高ぶっている者たちがいるそうです。
しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行きます。そして、高ぶっている者たちの、言葉ではなく力を見せてもらいましょう。
神の国は言葉ではなく、力にあるのです。
あなたがたが望むのはどちらですか。私があなたがたのところへ鞭を携えて行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。
コリントの信徒への手紙一 4章18~21節
2023年8月20日
きょうだいたち、私は、あなたがたのためを思い、私自身とアポロに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたが私たちを例にとって、「書いてあることを越えない」ことを学ぶためであり、誰も一方にくみし、他方に反対して高ぶることのないためです。
あなたを優れた者としているのは、誰なのですか。あなたの持っているもので、受けなかったものがあるでしょうか。受けたのなら、どうして、受けなかったかのように誇るのですか。
あなたがたはすでに満腹し、すでに富んでいます。私たちを抜きにして、王になっています。いや実際、王になっていてくれたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたと共に王になれたでしょう。
私はこう思います。神は私たち使徒を、まるで死に定められた者のように、最後に引き出される者となさいました。私たちは世界中に、天使にも人々にも、見せ物となったからです。
私たちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となりました。私たちは弱く、あなたがたは強くなりました。あなたがたは栄えある者となり、私たちは誉れなき者となりました。
今の今まで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、打ち叩かれ、落ち着く先もなく、
苦労して自分の手で働いています。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、
罵られても勧めの言葉をかけています。今に至るまで、私たちは世の屑、あらゆるものの滓とされています。
コリントの信徒への手紙一 4章6~13節
2023年8月13日
それで、イエスはヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったからである。
イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」
女は言った。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。
しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」
ヨハネによる福音書 4章5~15節
2023年8月6日
こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘義の管理者と考えるべきです。
この場合、管理者に求められるのは、忠実であることです。
あなたがたに裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、私は何ら意に介しません。私は、自分で自分を裁くことすらしません。
私には少しもやましいことはありませんが、それで義とされているわけではありません。私を裁く方は主です。
ですから、主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはいけません。主は、闇に隠れた事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。
コリントの信徒への手紙一 4章1~5節
2023年7月16日
きょうだいたち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストにある幼子に対するように語りました。
私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
相変わらず肉の人だからです。互いの間に妬みや争いがあるかぎり、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
ある人が「私はパウロに付く」と言い、他の人が「私はアポロに」と言っているようでは、あなたがたはただの人ではありませんか。
アポロとは何者ですか。パウロとは何者ですか。二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕える者です。
私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。
植える者と水を注ぐ者は一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受けます。
私たちは神の協力者、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
コリントの信徒への手紙一 3章1~9節
2023年7月9日
神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ローマの信徒への手紙 1章17節
2023年7月2日
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊に属する事柄は、霊によって初めて判断できるからです。
霊の人は一切を判断しますが、その人自身は誰からも判断されたりしません。
「誰が主の思いを知り 主に助言するというのか。」しかし、私たちは、キリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章14~16節
2023年6月25日
しかし、私たちは、成熟した人たちの間では、知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の無力な支配者たちの知恵でもありません。
私たちが語るのは、隠された秘義としての神の知恵であって、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
この世の支配者たちは誰一人、この知恵を悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
こう書いてあるとおりです。
「目が見もせず、耳が聞きもせず 人の心に思い浮かびもしなかったことを 神はご自分を愛する者たちに準備された。」
私たちには、神は霊を通してこのことを啓示してくださったのです。霊はあらゆることを、神の深みさえも究めるからです。
人の内にある霊以外に、一体誰が人のことを知るでしょう。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
私たちは世の霊ではなく、神の霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
この賜物について語るにも、私たちは、人の知恵が教える言葉ではなく、霊が教える言葉を用います。つまり、霊によって霊のことを説明するのです。
コリントの信徒への手紙一 2章6~13節
2023年6月18日
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
弟のほうが父親に、『お父さん、私に財産の分け前をください』と言った。それで、父親は二人に身代を分けてやった。
何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ち、そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった。
ルカによる福音書 15章11~24節
2023年6月11日
きょうだいたち、私がそちらに行ったとき、神の秘義を告げ知らせるのに、優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに捕らわれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、雄弁な知恵の言葉によるものではなく、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。
コリントの信徒への手紙一 2章1~5節
2023年6月4日
きょうだいたち、あなたがたが召されたときのことを考えてみなさい。世の知恵ある者は多くはなく、有力な者や家柄のよい者も多くはいませんでした。ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
コリントの信徒への手紙一 1章26~31節
2023年5月21日
十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。
それは、こう書いてあるからです。 「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし 悟りある者の悟りを退ける。」
知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
世は神の知恵を示されていながら、知恵によって神を認めるには至らなかったので、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一 1章18〜25節
2023年4月30日
神の御心によってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会と、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた人々、召された聖なる者たち、ならびに至るところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人々へ。イエス・キリストは、この人たちと私たちの主です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。
私は、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みのゆえに、いつも私の神に感謝しています。
あなたがたはキリストにあって、言葉といい、知識といい、すべての点で豊かにされたからです。
こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストが現れるのを待ち望んでいます。
主も、あなたがたを最後までしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。
神は真実な方です。この方によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
コリントの信徒への手紙一 1章1~9節
2023年4月16日
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。
よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書 21章15~19節
2023年3月26日
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明や灯や武器を手にしていた。
イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「誰を捜しているのか」と言われた。
彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「私である」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
イエスが「私である」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
そこで、イエスが「誰を捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
イエスは言われた。「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
それは、「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」とイエスが言われた言葉が実現するためであった。
シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした。僕の名はマルコスであった。
イエスはペトロに言われた。「剣を鞘に納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
そこで一隊の兵士とその大隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
一人の人が民の代わりに死ぬほうが好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに付いて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ったが、
ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
門番の女はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではないでしょうね。」ペトロは、「違う」と言った。
僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
ヨハネによる福音書 18章1〜18節
2023年3月12日
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」
イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知るであろう。いや、今、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのだ。」
フィリポが、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言うと、
イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」
ヨハネによる福音書 14章1〜14節
2023年3月5日
神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。
神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とした者に栄光をお与えになったのです。
ローマの信徒への手紙 8章28〜30節
2023年2月26日
イエスが山から下りられると、大勢の群衆が付いて来た。すると、規定の病を患っている人が近寄り、ひれ伏して、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は清められた。イエスは彼に言われた。「誰にも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
マタイによる福音書 8章1〜4節
2023年2月19日
あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。
「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。
ペトロの手紙一 1章15〜16節
2023年2月12日
イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ヨハネによる福音書 3章3節
2023年2月5日
私はあなたがたを愛してきた――主は言われる。 しかし、あなたがたは言う 「どのように愛してくださったのか」と。
マラキ書 1章2節
2023年1月29日
彼は言った。 「これはゼルバベルに向けられた主の言葉である。 武力によらず、権力によらず わが霊による
――万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書 4章6節
2023年1月22日
ゼルバベルよ、今こそ強くあれ――主の仰せ。 大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、強くあれ。 この地のすべての民よ、強くあれ――主の仰せ。 働け、私はあなたがたと共にいる ――万軍の主の仰せ。
あなたがたがエジプトを出たときに 私があなたがたと結んだ契約によって 私の霊はあなたがたの中にとどまっている。 恐れてはならない。
ハガイ書 2章4〜5節
2023年1月15日
恥を知らぬ国民よ 集まれ、共に集まれ。
もみ殻のように追い散らされ 吹き飛ばされないうちに。 主の燃える怒りが来ないうちに。
主の怒りの日が来ないうちに。
主を求めよ。 地の苦しむすべての者たち 主の法を行った者たちよ。 義を求め、謙遜を求めよ。
主の怒りの日に あるいは、かくまってもらえるであろう。
ゼファニヤ書 2章1〜3節
【年始の御言葉】2023年1月1日
イエスは、「人にはできないことも、神にはできる」と言われた。
ルカによる福音書 18章27節
【年始の御言葉】2022年1月1日
だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。このしばらくの軽い苦難は、私たちの内に働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。
コリントの信徒への手紙二 4章16~18節